「民主主義国すべての闘い」「日本の助けが必要」 ミャンマー民主派キーマン、ササ医師に聞く
国軍のクーデター以降、政情不安が続くミャンマーでは、わずか2カ月の間に国軍統治に抵抗する700人以上の市民が殺害され、3000人以上が拘束中だ。民主派による事実上の「臨時政府」が国内勢力の結集や、国際社会への支援の要請を強めている。その中核として動く医師のササ氏が本紙のオンラインでの取材に応じ「ミャンマーの市民の闘いは、民主主義国すべての闘い。日本にも重要な役割を果たしてほしい」と訴えた。
―市民に容赦なく銃口を向ける国軍の弾圧はとまらない。国際社会も対応が割れ、一致した制裁ができない。国軍支配を崩すことはできるのか。 自分たちの国を壊している者が、権力の座に長く居座ることはできるはずがない。民主主義や自由を取り戻すという私たちの思い、希望はすべてのミャンマー人に支えられている。彼ら(国軍)のテロ行為より強力であることは間違いない。 国際社会には、国軍に一切の資金や物資が渡らなくなるよう、一致した圧力、より強い経済制裁を求めている。一部の国が動かないことは承知だ。民主主義を否定する国だということが、歴史に刻まれるだろう。 ―医師や政府職員、幅広い労働者による市民不服従運動(CDM)は国軍統治を機能不全に陥らせ、効果を上げている。一方で、市民生活も困窮している。 確かにハードな状況だ。ただ、本来、平和的で非暴力のCDMに参加しただけで命を落とすことはない。国軍の暴力によって、銃弾や拷問で殺害されている。今ここで民主主義が失われれば、将来にわたりより大勢の犠牲が出ることは、現状を見れば明らかだ。市民は今の自分たちの生活よりも、子どもや孫の時代、未来を見据えて抗議を続けている。 ―国軍と長年戦ってきた少数民族武装勢力に結集を呼び掛けている。市民の間では「真の連邦制へ」が合言葉にもなっている。ただ、迫害を受けたイスラム教徒少数民族ロヒンギャの問題など、一部でわだかまりはないか。 さまざまな少数民族勢力と話し合いを重ねている。これまで少数民族に対する国軍の弾圧を見てこなかった(ビルマ族中心の)市民も、目の前の非道行為でようやく気付き、ともに民主主義を勝ち取るという機運が高まっている。かつて、さまざまな立場の人たちがこれほどまでに団結したことはなかった。 「もう誰ひとり取り残されることはない」という考えで協議を進めている。ロヒンギャ問題でも、国軍は歴史的な経緯でうそをつき、虐殺を否定してきた。好き嫌いではなく、事実を見なければならない。「私は平和を望んでいる。自由がほしい」と言いながら、ロヒンギャを排除することはありえない。私はすべての人たちに「兄弟、姉妹」と呼び掛けている。 ―アウン・サン・スー・チー氏ら指導者が拘束され、抵抗運動にも特別なリーダーがいない。効果的な対抗手段を打てるのか。 民主的で、選挙で選ばれた政府への復帰に向け、近く暫定的な統一政府を発足させる。国内外に、どちらを支持するのか問い掛けたい。民主主義や自由を掲げる国際社会が、私たちを支援してくれると信じている。 それに伴い、いかにクーデター政権を通さず、対抗するための資金や物資を国内に行き渡らせるかのシステムを考えなければならない。多くの国境があり、少数民族勢力の支配地域もある。各国や国際人権団体、NGOなどと協議しながら、方法を探っている。 ―あなたは最高刑が死刑の反逆罪で訴追された。犠牲になった若者も多い。
国軍は過去の民衆弾圧を含め、今も国民に対して「人道に対する罪」を犯し続けている。そのテロリストに「お前はわれわれを邪魔している」と訴えられたことはむしろ誇り、褒め言葉のようだ。彼らは私たちから金品を奪っているが、自由を求める意思、国を愛する思いは奪えない。多くの若者が、命をささげても闘い続けるという覚悟をみせている。
オンラインの取材に「ミャンマーの闘いは、民主主義国すべての闘い。日本の支援が必要」と訴えるササ氏
―戦中、戦後から、日本はミャンマーとのかかわりが深い。 私たちが求めているのは、日本では当たり前の民主主義や自由、正義だ。とてもシンプルなものが傷つけられている。すべての民主主義の国に、それを認めていいのかが問われている。私たちが民主主義を取り戻すことは、ミャンマーにとってだけでなく、すべての民主主義の国の勝利だと考えている。 この不安定な状況で、ビジネスを長く続けるという選択肢はありえない。長期的に見て、何が市民に受け入れられ、最善の選択となるかを考えてほしい。欧米は国軍に厳しい姿勢で臨み、国軍は中国やロシアを気にしている。日本やインド、東南アジア諸国連合(ASEAN)各国はとても重要な国であり、行動に期待したい。日本はその中で、リーダーシップを発揮できる。日本政府だけでなく、日本の人々も協力してくれることを願っている。

ドクター・ササ ミャンマー北西部チン州の山間の僻村へきそん出身。1980年代生まれとされるが、村では記録管理の習慣はなく正確な年齢は不明。約40歳。食料や仕事に乏しく、学校や医療施設などインフラ未整備の環境で、大勢の子どもらが命を落とすのを見て育った。医師を志し、村で初めて高校に進学。最大都市ヤンゴンまで650キロを徒歩で向かった。知人の英国人によると、初めて身分証を作成した際に「出生地」の意味がわからず「台所で生まれた」と答えていた。その後、村人が家畜を売るなどして協力し、インドやアルメニアの医科大で学ぶ。帰国後、故郷の村の飢餓救援に尽力し、国際的な支援取り付けに奔走する。村の保健医療向上に努め、財団を設立。学生時代に対面した縁でチャールズ英皇太子も支援者の1人。慈善活動を続ける中で、スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)に打診され、改選後の第2次スー・チー政権で、要職に起用されるはずだった。クーデターがあった2月1日は首都ネピドーに滞在。タクシー運転手に変装するなどして、3日3晩かけて脱出したという。NLD議員らがクーデター後に立ち上げた「連邦議会代表委員会(CRPH)」が国連大使に任命、少数民族勢力や国際機関などとの交渉役として前面に出ている。
Source from Tokyo web